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平安座島概要

平安座島航空写真平安座島は、勝連半島の北東約4kmの北緯26度20分56.81秒、東経127度57分1.99秒に位置し、周囲約7km、面積5.32平方キロメートル(内、2.59平方キロメートルは埋立地である平宮区)、標高は最も高いところで115.6mの琉球石灰岩におおわれた台地状の島である。沖縄本島とは海中道路で結ばれており、本島中部東岸の勝連半島から金武湾を形づくる『海中道路で渡る、離島四島(平安座島、宮城島、伊計島、浜比嘉島)の玄関口』にあたる。

島の北半分には原油貯蔵施設等の石油企業が立地し、島の南東部には集落と狭小ながら耕地がある。平成24年4月末現在の世帯数は561戸、人口は1,364人であり、主な施設としては自治会館、小中学校1校、駐在所、郵便局、消防署がある。

マーラン船島の産業は、第2次世界大戦前まではマーラン船(山原船)100隻余を有して山原や奄美大島等津々浦々を航海し、沖縄の経済を担う海運業で繁栄した。戦時中にほとんどのマーラン船が米軍機の爆撃をうけ、わずかに残った船だけで操業していたが、戦後、陸路交通の発達に伴い1950年代でその幕を閉じた。現在、島には主な産業はなく、島外での職に就いている住民が多い。

住人の移動手段は主に自家用車であるが、沖縄本島側の屋慶名と四島間を運行する有償バスが一日6~7本あり、また平成24年4月に平安座を含めた島嶼地域の小中学校が統合した彩橋(あやはし)小中学校へはスクールバスが運行されている。

島内には5軒ほどの商店もあり、海中道路を渡った与勝半島には中型のスーパーなどもあって、特に買い物などに不便さを感じることは無い。

平安座島の起源については、確固たる資料が乏しく解明がなされていないことが多いが、貝塚時代中期(紀元前1千年以後のおよそ1千年間)のものとみられる東ハンタ原貝塚が1956年に多和田真淳氏によって発見され、1968年から1971年に友寄英一郎琉球大学教授によって発掘調査されている。(後に石油関連企業の建設工事により湮滅)このことから、平安座島には東ハンタ原の崖下近くの丘上に、縄文時代末期に原平安座人が住み、狩猟、漁撈を営んでいたとみられる。

昔の平安座集落(東グスク方面より)さらにグスク時代(12世紀から15世紀)には平安座イリーグスクが築城されたとみられ、御先川端(ウサチカーバタ)按司にはじまる親子二代の城主と伝えられるが定かではない。その後、高花按司の居城となりその頃の集落は島の北側にあったが、16世紀以前には古島(現在の部落の西方方面)に移動したと言われ、17世紀には現在の位置に移っている。

1676年に勝連間切から西原間切が分割され、平田間切、与那城間切と名を変えて、1887年与那城間切平安座むら(邑)となり、1908年与那城間切が与那城(よなぐすく)村となったため、平安座島は与那城村字平安座となった。

1994年1月1日に与那城村は与那城(よなしろ)町となり、2005年4月1日に具志川市、石川市、与那城町、勝連町の4市町が合併して現在のうるま市が誕生したため、平安座島は「うるま市与那城平安座」となっている。


参考文献:平安座自治会館新築記念誌」(1985年平安座自治会発行)